omochimonimoni’s diary

文章を書く練習

カニカニ打鍵を卒業したい

パソコンで文章を書き始めてからだいぶ経とうとしているけれど、私は未だにタイピングがカニカニ打鍵(使うのが両手の人差し指と中指だけ)のままだ。

このカニカニ打鍵のままタイピングの速度だけは人並みになった。手元は見ないでください。

 

母に「なぜあなたはそんなに器用に何本も指を使えるんですか」と聞いてみたことがある。

「ピアノも10本の指使って弾くでしょ?それと同じ!」と母。

……………

ピアノとキーボードじゃ当たり判定の大きさが違うじゃん

キーボードなんか全部黒鍵のピアノみたいなもんですよあなた

幻想即興曲を全部黒鍵使って弾くようなもんだよ むり

こんなちっちゃい的に指10本の照準をあわせ続けるのは私には難しすぎる。

 

というわけで、私は多指でずだだだだっとタイピングができる人をものすごく尊敬している。練習したらピアノがすごくうまくなるんじゃないかしらとも思っている。

タイピングが得意な人、一度ピアノやってみませんか?

ピアノ経験者だけど指10本使いこなせない人より

 

 

 

本をむさぼり食えなくなった話

「ミンチン先生、この子のは本を読むというのではありません。オオカミががつがつものをたべるように、本をむさぼり読むんです。なにかあたらしい本がないかとセーラはいつもがつがつしております。」

                                 バーネット(谷村まち子訳) 『小公女』 偕成社文庫、2010年、19頁

 

中学校を卒業するぐらいまで、私の読み物に対する姿勢はセーラとよく似ていたと思う。読んだ知識を役に立てる能力は明らかにセーラのほうが上だけれど、読むことへの欲求は私も負けていなかった。

学校の机の中には常に本を3,4冊詰め込み、それでも足りない!と机の横に本を入れるためだけの手提げ袋をぶら下げていて、それもまたぱんぱんだった。週末に行く本屋で1冊好きな本を買ってもらうだけでは飽き足らず、図書館に通って毎回貸出冊数上限まで借りる。それを1週間で読み切ってまた次の週末に図書館に連れて行ってもらう。その繰り返しだった。

 

この頃の私には「相性がよくない本」という概念は無かった。文字が書いてあれば私にとってそれは喉から手が出るほど読みたい本、おもしろい本であり、それがたとえ今の自分にはわからなさそうな難しい事象を扱っていたとしても、私がその本を拒む理由にはならなかった。

 

それがどうしたことなのか、今は「相性がよくない本」に当たる確率が高くなって戸惑っているところである。

「相性がよくない本」に当たると、まず最初の10ページほどで手が止まる。そこからの読書は、その本の世界に没頭するという感覚は一切伴わない。今ここで読み止めれば、この本を次に開くときはおそらく来ないだろう。この本は結構高かったのにそれはもったいない。ならばここで読めるだけ読んでおこう。という風に、できるだけその本の価値を吸い取ろうとするただの作業に移行してしまう。これはものすごく体力を使う作業であり、こういう本は1日に1冊読むことも難しい。

「相性のいい本」は、文章に目が吸い付くし、楽にしていれば向こうの方からその本の内容が自分に入り込んで来てくれる。「相性のいい本」に当たり続ければ、何冊でも何時間でも読んでいられる気がしてくる。

ここで言う相性の良い悪いはすべて私の主観で分けられたものであり、私にとって相性がよくない本だけど妹は大好きな本、とかいうことはもちろんある。ただ、唐揚げもカレーライスも誰かにはあまり好かれていないように、どれだけ世間で名作だと言われようとも、私はそれはどうも苦手なんです、というだけのことである。決して私は、この本は私と相性がよくないから、誰にとっても苦手な本だ、などという考え方をしているわけではない。美味しいんだけど、その美味しさは私が求める美味しさではなかった、それだけだ。

 

ところで、なぜ私は最近こう「相性のよくない本」に当たることが多くなったのだろうか。

ひとつ思い当たる節がある。私の中の「読むこと」への欲求が、ある程度満たされてしまったのではないだろうか。

「空腹は最高のスパイス」というように、ものすごくお腹が空いているときはなんだって美味しく食べられてしまう。それと同じように、中学までの私は本に飢え続けていたのではないか。飢えていたから何でも読めた。その味が好きか苦手かなんて気にする暇もなかった。何でも食べなければ、読まなければ欲求を満たせなかったのかもしれない。

現在は、スマートフォンを手に入れたことによって、いつでもどこでも何かを読み続ける、ということが可能になった。それによって「読むこと」への欲求がある程度満たされているから、相性のいい、よくないに目を向ける余裕ができたのだろう。

 

そう考えれば、今の「相性がよくない本」に出会うようになったこの状況をむしろ喜ぶべきなんじゃないかとまで思う。ただただすべてを取り入れ続けていた時期ももちろん幸せだったけれど、その一個前の段階である「読む本を選ぶ」ことを楽しむ余裕は無かった。今はそれを楽しむ余裕がある。これは、今はもっと幸せになっているということではないだろうか?

 

とはいえ、今の私は「相性のよくない本」を咀嚼して飲み込むことは前よりも下手になった。ただ、これから先、どうしてもそういう本と向き合わなければならないときだって絶対にやって来る。その時のために、うまく付き合う方法は探しておかないといけないなあと思っている。

 

ところでセーラは、読むことへの欲求を満たせていないから、冒頭に触れたようにがつがつと本を読み漁っていたのだろうか。それとも、その読み方がセーラの通常運転なのだろうか。作品を見返してみると、友達の持つ本に対してこれが読みたかったと発言している場面がある。これを「読む本を選んでいる」と捉えるなら、昔の私とセーラの「読むこと」に対する欲求は微妙に異なっていたのかもしれない。

私にとってセーラは「無類の本好きの女の子、本そのものが好きな女の子」であり、その認識はやはり間違っていなかったようだ。自分の興味のある本を選び取りながらも、あんなにたくさんの量の本を読みあさっていたのだから。

 

 

 

ビーバーじゃなくてマーモットでした

本命大学の受験当日の午前3時

寝れない どうしよう

おじいちゃんが「人間目つぶって寝るんやからまず目つぶらな寝れるわけないやろ」って言ってたから頑張って目つぶるわ 

でもさ

こういう時に限って変なこと思い出すんよな

絶叫するビーバーとか

どうせ眠れないし暇なので 絶叫するビーバー 元ネタ でググる

そんで今更知りました

あの方マーモットなんや。

そんであの声人間の声なんや……。なんかごめんなマーモット

※現在元動画は非公開

 

ひたすらマーモットに思いはせてたらいつの間にか寝てた

 

試験は合格しました ありがとうマーモット 種族間違えててごめんね

 

今週のお題「試験の思い出」